サロンの作家たち。

🔶🔶ミカエル・ユミ先生の部屋🔶🔶

ミカエル先生にあられましては、2017年冬のサロンにおいて、とても原文を掲載できない珍ストーリーを語ってくださいました。実話故掲載不能なので、せめてわたくしがミカエル先生の御許しを得て、その珍話の中身を彷彿とさせるタイトルを付けさせて戴きました。

サロン・ド・ビリケン・ネオ2017冬

作・朗読 ミカエル・ユミ先生

題して、

『道はひらける!』

トラブルメー「カーネギー女史」の、

人に迷惑かけて夢を叶える方法

~マジかよ!?世界に羽ばたく

とんでもおば様の成功譚~ 

 

でした。御多忙な中、書き上げ、一時間の睡眠で参加され、御披露下さいました。さすがミカエルっ!

ハレルヤっ主と共に平安アレっ?

 

🔴しかしミカエル先生と云えばやはり以下の実話が強烈です。花田の敬愛する世界的映画監督とミカエル・マミーとトミーは友達だったんだぜ?って話。

ミカエルマミーはあの天才監督夫婦を家賃滞納で追い出していた!!びつくりい。以下本文↓↓↓↓

◆サロンの作家たち◆

↓↓↓

★★★ミカエル・ユミ先生の作品★★★

    ≪その1≫

「借金王トミーの幸せな人生」

 11億円踏み倒しても愛される秘訣~

 作・話 ミカエル・ユミ

 ≪2017年8月13日

『サロン・ド・ビリケン・ネオ』にて

お話し下さった作品の

 固有名詞などをボカして戴いた

 ネット公開用の原稿です。≫

 

 

<プロローグ>

  

 みなさん、こんばんは。ミカエル・ユミと申します。

  

私は昨年、花田先生にナレーションのレッスンを受けておりました。

 

声を使った仕事をするというのは、20歳のころの夢でしたが、今夢が叶って幸せを感じています。

 

そんな風にだれにでも夢や希望ってありますよね。

 

今日これからお話しするのは、夢を叶えた一人の男性の物語です。

 

その男性は、映画を作りたい、社長になりたい、本を出版したい、という夢を持っていました。そして、不思議な運を味方につけ、自分の3つの夢をすべて叶えました。

 

幸せな人、しかし、家族にとっては迷惑な人でもありました。その男性の名はトミオ、略してトミー、私の父…です。

 

このお話は父トミーと母マミー、そして私ユミーの物語です。

 

お話しのタイトルは、「借金王トミーの幸せな人生 11億円踏み倒しても愛される秘訣」

 

最後の方に、皆様にも運を味方につけるコツをお伝えするので、お楽しみに。全部で3つの部からなる、60分を超えるお話しなのですが、気楽にお聞き聞きください。では、はじまり、はじまり~。

 

  1. うちのろくでなし>


 皆さんは、借金をしたことがありますか?

 

うっかりお財布を忘れたとかではなく、銀行や消費者金融からお金を借りたこと…。何かを買うためにローンを組んだこと…。

 

私は小さい頃から「どんなことがあっても、借金をしちゃいけないよ。」と母マミーに、繰り返し言われて育ちました。

  

「今お金がないのに使ってしまたら、来月は来月でまたお金がいるんだから、払えるわけがない。欲しいものがあったら貯金して買いなさい。今あるお金で足りることをしなさい。」そう教育されました。

 

それは、父トミーのことがあったからです。

 

 

トミーは、非常に人のいい、かつお金払いもいい人でした。

 

 

育った家が商家で、家に現金がたくさんあったからなのか、一人っ子で大事にされて育ったからなのか、あるいは男の見栄や気の弱さのせいなのか?よく言えば鷹揚、悪く言えば経済観念がなく、あまりお金に糸目をつけない人でした。

 

私が何か欲しいというと、デパートの売り場の中で一番品質のいいもの、一番値段の高いものを買ってくれました。

 

 

トミーの勤めている会社は東京の銀座にありましたが、時々、家族へのお土産として、銀座でお寿司の折り詰めやケーキを買ってきてくれました。

  

ケーキはショートケーキやモンブラン、プリンケーキなど20個ぐらい買ってくるので、どれを食べようか迷うほどでした。

 

どこで売っていたのか、ヤシの実を丸ごと一個買ってきたこともあります。中の椰子ジュースを飲むため殻に穴をあけないといけないのですが、キリでもノコギリでも歯が立たず、結局ただのオブジェと化し、「こんなもの買ってきてどうするんだろう。無駄遣いばかりして。第一、買った後にどうするか後先のことも考えず、ただ珍しいからって買ってくるなんて、計画性がないよ」と母マミーは怒っていました。

 

 

そんな金払いのよさは家族だけに向けられたものではなく、トミーがしばしば行く銀座のバーでもホステスさんに金払いがよく、そして、仕事で何十人の部下にふるまう時にもお寿司屋で金払いがいいのでした。でも、ただのサラリーマンですから、当然お金が足りなくなります。するとトミーは信販会社のカードで払います。

 

積もり積もって、マミーに内緒の多額の借金ができます。しかし、支払いが滞って、ある日家に督促の電話が。マミーはびっくり仰天。

 

 マミーは農家の生まれ。畑を耕し、種をまき、水をやり、何ヵ月も肉体労働をして収穫を得る、地に足の着いた人でした。

 

 9人兄弟の4人目で、妹や弟の子守りをしたり、薪でお風呂をたきながら勉強するなど苦学をし、決して恵まれた環境ではなかったのですが、勉強が大好きで成績は学校で一番でした。

 

 小学校を卒業する時、女学校から「奨学金を出す。ただでいいから来てほしい」と言われたのに、家が貧乏で「ノートやお裁縫箱などの学用品や、縫物をするときの反物が買えない」という理由で行かせてもらえませんでした。

 

 なので、お金の大切さは人一倍身に染みていて、節約家でコツコツ貯金する堅実な人でした。

 

 そんな働きアリ・マミーのところに降ってわいた、キリギリス・トミーの作ってきた借金。

 

 当然大もめとなり、しかしトミーにはどうすることもできないので、マミーが、夜寝ないで洋裁の仕事をして返しました。

 

 しかし、そんな何百万もの大金を、苦労してやっと払い終わったと思うと、またトミーが何百万も借金を作って来るの繰り返しで、もうしないと約束しても、トミーは借金を作ってくるキリギリスっぷり…。

 

 マミーの話によると、トミーは払うお金に困って、こっそり私の姉エミ―の学資保険まで解約して使ってしまったそうです。これにはマミーもエミーも大激怒。

 

 結局、信販会社に「この人にはもうお金を貸さないでください」という法律的な、今でいうところのブラックリスト?の 手続きをするまでトミーの隠れ借金は続きました。そんな風に借金のおかげで辛酸をなめたマミーは、借金をすごく憎んでいました。

 

 トミーは、映画会社に勤めていました。テレビが普及する前は映画が庶民の唯一の娯楽だったので、トミーの会社はもうかってもうかって仕方がなく、東京で一番お給料がいい会社だったそうです。

 

 だから私の生まれた家も、小さいながらも本瓦・総ヒノキづくりの家で、私が生まれる前は、家に歌舞伎役者さんや美空ひばりさんが遊びに来たこともある、とマミーが言っていました。

 

 しかし、キリギリス・トミーの金払いのよさゆえ、我が家の経済状態は困窮していました。

 

 だから、働きアリ・マミーと買い物に行くと、まず値札をひっくり返してチェックし、売り場で一番安いものを見つけると、有無を言わさず「これにしなさい!」と言われました。

 

 品質の善し悪しや、デザイン、私の好みは一切無視で、「とにかく一番安いものを買う」というのが地に足の着いたマミーのポリシーでした。

 

 そんな私が子どもの頃、トミーはあまり家にいなかったのですが、私の記憶では、トミーはマミーにいつも怒られていました。

 

私が幼稚園の頃、トミーはマミーにドアのちょうつがいを直すのを頼まれました。でも上手に直せなくて、様子を見に来たマミーに「たったこれだけ直すのに、一体何時間かかっているの!本当にグズだね!ここをちょっとこうしたらいいだけなのに、なんでそんなこともできないの!」と怒られていました。

 

 また、マミーに庭に植えるパンジーの苗を買うよう頼まれた時は、紫色だけを買ってきて、「パンジーは3色すみれっていうぐらいなんだから、いろんな色を売っていたでしょう!ピンクとか白とか黄色とかあったでしょう!いろんな色を植えたらきれいなのに、なんで紫色だけしか買ってこないの!おかしいでしょ!」と大声で責められていました。

 

 怒られると、トミーはうなだれて小さくなって、じーっとマミーががなるのを聞いていて、時々「いやでも…」とか「僕は…」とかうつむき加減で、弱々しく、少し反論めいたことを言うのですが、たいていはマミーにすごい剣幕で言われっぱなしでした。恐妻家というのはあんな感じの人のことを言うのでしょうか。

 

 そのたびに私は「マミー、そんな重大な事じゃないし、トミーなりに一生懸命やったんだし、しかも人に頼んどいて、そんなに怒らなくても…」と思ったり「トミーもトミーだよ。マミーが怒るのももっともだよ」と思ったりしていました。

 

 二人が大げんかすることもしょっちゅうありました。

 

 たいてい、トミーがへべれけになって酔っぱらって帰ってきて、それでマミーが「また飲んできて」とか「またお金を使ってきて」とかそういうことで揉めていたのだと思います。

 

 マミーはトミーのことを「ロクさん」と呼んでいました。

 

 「うちのろくでなし」の略のロクさんです。

 

 でも、そんなマミーに頭の上がらないトミーが、キレてちゃぶ台をひっくり返して怒ることもありました。

 

 いつもは気の弱いトミーが、顔を真っ赤にして目を三角に吊り上げて、箸やお椀を投げつけ怒鳴り、それに対して、もともと気の強いマミーは負けじと「あんたは3年前のあの時もこうだった、5年前にもこうだった」と、夫婦げんか禁じ手の「過去の出来事」を持ち出し傷を広げ、容赦なくトミーをネチネチと反撃します。痛いところを突かれたトミーはますますホットなパッションをみなぎらせて、我が家の居間は「ゴジラ対アンギラス」の戦いの場と化すのでした。
 

 その声は近所中にとどろき渡り、そんな時、私は隣の子ども部屋の押し入れの中に逃げこんで、耳を押さえて小さくなっているのですが、ある晩の史上最強の戦いの時は、いたたまれなくなった姉エミーがわたしを連れ出して、二人で行く当てもなく夜の商店街をぐるぐる歩き回ったこともありました。

 

 ろくでなし・トミーは朝起きてくると全身からお酒の匂いがプンプンするし、トミーのあとにトイレに入ると、腐ったような匂いがするし、文字通り鼻つまみ者でした。

 

歯を磨く時には、のどの奥に歯ブラシを突っ込みすぎて毎朝「おえっ」という声を発するのも家族から嫌われていました。

 

 でも私にとっては、いつも優しくてお馬さんや肩車をしてくれたり、夏休みの宿題の工作を作ってくれたり、よき父でした。

 

 本当に私のことを猫っかわいがりしてくれて、いつも「ユミーちゅぁ~ん」と私のご機嫌を取っていたし、私のお願いには逆らえず、私が欲しいものは何でも買ってくれました。私に尽くすのがよろこび…とでもいうのか、いつも下手にでてくるので、子どもながら私は「自分の方がトミーより力が上だ」と感じていました。

 

 ある時、たぶん小学校低学年だったと思いますが、二人で散歩に行き、通りがかった小鳥屋さんにいた、尾の長い珍しい鳥をねだって買ってもらいました。帰宅したら、ろくでなし・トミーはマミーから「誰が世話をするの!」とものすごく怒られていました…。

 

  そんなトミーがいつの頃から、だんだんと家に帰ってこなくなったのか…。記憶があいまいで、よく覚えていませんが、小学校4年か5年の頃、家に帰ったらマミーが目を真っ赤に泣きはらした顔をしていたのは覚えています。

 

 マミーは私には一言も言いませんでしたが、どうやらトミーは浮気しているらしい…。と後になって知りました。

 

 それでも、私が中学一年ぐらいまでは日曜日は家にいて、私が私立大学付属の中学校に合格した時は、一緒にデパートに学生鞄を選びに行ったし、私の初潮の時には「おめでとう」と祝福してくれて、家族全員でお赤飯を食べました。
 

しかし、そのうち全く帰ってこなくなりました。トミーはマミーに離婚したいと言い、マミーは抵抗しましたが、ついに私が13歳の時に協議離婚が成立しました。

 

 マミーは、私より10歳年上の姉エミーにはすべて相談していたようですが、まだ子どもだった私には、詳しいことは何も言いませんでした。

 

 ただ、トミーはこれから女と一緒に長野で暮らすこと。そして、長男にもかかわらず、女の家の婿養子になることを、忌々しそうに教えてくれました。

 

 「昔から『小糠3合あったら婿になるな』と言われているのに、よろこんで婿になりに行くとはよっぽどバカだ。第一、一人っ子なのに、自分の先祖代々の墓を捨てるとは何事だ。お墓は誰が守るんだ、本当にロクはバカだよ。」とマミーは吐き捨てるように言っていました。

 

 そこから私の、父のいない人生が始まりました。

 

 離婚で私は、体が無理やりまん中で引き裂かれるような痛みを感じました。

 

 ただでさえ悲しく、これからどうなるのか不安なのに、マミーは「うちはお父さんがいないんだから」と、ふたこと目には追い打ちをかけてきます。

 

 そう言われるたびに、「あるべきものがない自分は欠陥品、カタワだ。私の家庭は劣っているんだ」というみじめさを感じ、お父さんのいる普通の家が本当にうらやましかったものでした。

 

同時に「トミーは私よりもその女の人のことを選んだんだ。私は捨てられたんだ。」という思いも、その後何十年も、心の深くにあり続けました。

 

 その後、トミーとは音信不通。

 

 私の養育費も最初の一年だけしか支払われず、マミーは女手一つで、私を授業料の高い私立の学校へ、大学まで通わせてくれました。

 

  家庭内でトミーの話題はタブーでしたが、何かの時に、マミーが「ロクは長野にある女の土地に、旅館を建てて商売を始めるらしい。でも、絶対にうまくいきっこない。あいつは借金をする能力はあっても、返す能力はこれっぽっちもないんだから」と断言していました。

 

 私は心の中で「え、そんなことやってみないとわからないじゃん」と思いつつ、しかし長年連れ添ったマミーの発言には重みがあり、もしかしたらマミーの言う通りなのかな、とぼんやり思っていました。

 

 

<第2部 やっぱりろくでなし>

 

 

 それから二十数年たち、私は結婚し、息子も生まれました。

 

 夫に愛され、息子からも大好きと言われる毎日でしたが、わたしの中の「父がいない」という心の穴は、ぽっかり開いたままでした。

 

 ある専門家からは「息子さんは、まだ4才だけれども、精神レベルではあなたのお父さんをしてくれていますよ。無意識にあなたの心の穴を感じ取り、それを埋めようとしてくれていますよ。」と言われたこともありました。

 

 そんなある時、信頼するセラピストから「この際、もし会えるなら、お父さんに会ってみたらどうですか」と言われました。

 

 こわい…。でも、何もしなければ今のまま、心の傷を抱えたまま生きていくことになる。変わりたい。

 

 私は新しい一歩を踏み出すために、マミーのアドレス帳から、こっそりトミーの旅館の電話番号を書き写しました。

 

 でも、すぐには電話をかけられず、1ヶ月近く迷いました。

 

 「なんて言おう。私ってわかってくれるかな…。」

 

 そしてある日、ついに意を決してわたしはトミーの旅館に電話しました。

 

 トゥルルルル、トゥルルルル…。

 

 電話に出たのは…トミーでした。

 

 「お父さん、わたしユミーです」というと、一瞬の沈黙のあと、「え。ユミー?ユミーかい?!」とトミーはかすれた声ですごくびっくりしながら、でも、喜んでくれました。そして、「今は、いつ人がくるかわからないから長く話せないけれども、今度、東京に行く用事があるから会おう」と約束をしました。

 

 ああよかった!わたしの胸はスーッと楽になりました。

 

 二十数年ぶりに会ったトミーは、スマートだった体形が、すっかり太ってマシュマロマンみたいになっていました。

 

 知っているような、知らないような人…という感覚。

 

 でも不思議ですね。会ってしばらくすると違和感は消え、「お父さん」と呼びかけ普通に話せます。

 

 お昼ご飯を食べながら聞いたところによると、トミーはマミーと離婚したあと、新しい奥さんの地元の、長野県の安曇野に行ったそうです。

 

 そして、ホテルのフロント・支配人・総支配人などをするうちに、自分の旅館を建てたいと思ったそうです。そこで、新しい奥さんが安曇野に持っている、2万坪の山林を売り払って、4000坪の土地に800坪の旅館を立てたということでした。

 

 鉄骨木造二階建て、部屋数20、大広間、ロビー、ギャラリー、露天ぶろ付きの大浴場。コンセプトは日本の昔を懐かしんでもらうことで、紙風船が旅館のシンボルでした。

 

  トミーと再会した帰り道、私はとても満たされた思いでした。

 

 「わたしにはお父さんがいる。しかも旅館を経営するお父さんが!」

 

 私の通う学校では、お父さんが医師や弁護士、政治家、財界人、会社経営者というのが、ごく当たり前でした。

 

 系列の幼稚園が終わる時間になると、白い手袋をはめた運転手さん付きの黒塗りの車がお迎えに来る光景が日常だったし、「今日は帰ってもママがいないの」という友人に「お母様働いていらっしゃるの?」とうちと同じかなと思って聞いたら「今日はブリッジの会にいっていらっしゃるから、手伝いのねえやしかいないの。」という答えが返って来るような学校でした。

 

 裕福でよい家柄の子がいっぱい来ていました。

 

 その中で、母子家庭の私は、学校ですごく肩身の狭さを感じていました。いつも自分の家は父親のいない、劣った、恥ずかしい家庭だと思っていました。

 

 なので、トミーと再会した時、クラスメイトに大きい声で言いたい気持でした。「私お父さんいるんだよ~。私のお父さん、社長なんだよ~。立派なお父さんなんだよ~。」

 

 いないと思っていた父が、旅館を経営する社会的に成功している父だったというのは、とてもうれしいことでした。

 

 たとえ社長でないにしても、「お父さん」というポジションが埋まっていると思うだけで誇らしく、帰りの電車では急に自信がみなぎり、胸を張って背筋をピンと伸ばして、堂々と歩いて帰ってきました。目に映る景色も違って見えました。

 

 その後、トミーから何通か手紙をもらいました。

 

 旅館は、トミーが自分なりの理想を追求し工夫を凝らしていること。例えば売り物にならないリンゴをもらってきて温泉にうかべてリンゴ風呂にしたり、宿泊客に無料で観光案内をしたり。ギャラリーには昔縁のあった、ギャグ漫画家さんの絵を飾ったり。

 

 おかげで、「日本のホテル・旅館100選」の 『和風の宿 特別賞』を受賞し、また、ごひいきにしてくれるお客様もいてくれて、なかなか評判がいいとのこと、などを教えてくれました。

 

  地元の新聞にも名物社長としてたびたび取り上げられ、地元の中学生に講演会をしたという記事のコピーも手紙とともに入っていました。

 

 講演会のテーマは「「夢あれば天運あり」。自分はいつも夢をもち、それを叶えてきた。どんなときにも明るく希望を持って生きていれば、必ず天は見ていてくれる、そして思いがけない運が降ってくる、だからみんなもいつも明るく希望を持って生きなさい、というような内容でした。

 

 しかし、私はそんないい話を聞きながらも、この旅館経営がうまくいくのかどうか、非常に大きな疑問を持っていました。

 

 たしかに、トミーは知恵と工夫で頑張っている。しかし…。

 

 紙風船を懐かしむ世代の人っていったいいくつの人??

 

 ギャラリーの漫画家さんの絵にしてもトミーはすごいと自慢しているけれども、大変失礼ながらその方が一世を風靡した戦後まもなく。今、それで人呼べる??なんだかいちいちセンスが古いような気がする…。

 

 トミーの旅館はバブル最終期に建築が始まりました。

 

オープンは日経平均株価の最高値(さいたかね)38千円だった頃です。

 

 当初はバブル景気にのっかり、千客万来だったと言います。

 

 しかし、翌年バブルは崩壊し、日本経済は大混乱。

 

 お客さんは激減し、トミーは、銀行から借りた建設費5億円の返済プランが大幅に狂ってしまいました。

 

 今では信じられないことですが、その頃は郵便局の積み立て貯金の金利が8%もあり、同時にローンの金利も固定金利でも5.5%、変動金利だと8.5%で、ものすごく利子が高かったのです。

 

  トミーからの何通目かの手紙には、実は借りた5億円が、今は利子が膨らんで、11億円になっている、と書いてありました。毎月利子を返すだけで精一杯。元金は全く減っていない。

 

 しかし心を明るく保てば、必ず打開策はあるはず。今まで自分は信じられないような運のよい人生だった。だから、今回もきっと天が助けてくれるはず…。そんなようなことが書かれていました。

 

 最後にトミーに会ったのは、マミーが病気で亡くなった少しあとでした。

 

 私は黒い服しか着られないほど、悲しみに沈んでいました。

 

 トミーにマミーが病気で死んだことを報告すると、トミーはこう言いました。

 

 「そうかい、それは可哀想なことをしたね、マミーには苦労かけたね。お父さんのせいだね。………それで、少しでいいんだけどお金を貸してもらえないかな」

 

  マミーが死んだばかりの娘に、借金を申し込むんだ!この人は!

 

 そう思ったら、こんな人はお父さんではない、とプツンと気持ちの糸が切れる思いでした。トミーの頭は、今にも破たんしそうな、大事な大事な自分の旅館のことでいっぱいだったのでした。

 

  私は、深く息を吸い込むと、目の前にいる風采の上がらない男に、はっきりとこういいました。「死ぬ前にマミーから、『もしも万が一、ロクにお金を貸してくれと言われても、1円も貸してはいけない。貸したら最後、絶対に返ってこないから』と言われているの。これはマミーの遺言だから守らなくてはいけない。」と。

 

  すると目の前の男は「そうか。マミーがそう言ったのか」と力なく笑ってそれきりお金の話はしませんでした。そして私の息子に組み立てロボットのおもちゃを買ってくれて、「じゃあ他に予定があるから」と別れました。

 

 私は、「今日私に会ったのは、私を金づるだと思ったから?私を利用するため、お金が目的だったの?」と悲しくなり、「やっぱり私にはお父さんはいないんだ」と、再び心を閉ざしました。

 

 それから何か月かしたのち、トミーから手紙が来ました。

 

そこには、とうとう借金が返せずに、旅館は手放し、自己破産したこと。

 

 11億円もの借金を踏み倒したので、高額な生命保険をかけられて、闇組織から命をつけ狙われていること。万が一にでも私に迷惑がかかるといけないから、今後一切、連絡を取るのをやめることが書かれていました。

 

 そして、自分はどんな逆境の時にも絶望せず、夢と希望を忘れずに生きていくこと。前を向いて生きていれば、いつかまたいいこともまたあるということ。私に体に気を付けるように。そんなことが書かれていました。

 

  「あいつに借金は返せない」と言っていたマミーの予言は大当たりでした。さすが長年連れ添った女房マミ―。

 

 新しい奥さんは、トミーのこういった習性を見抜くことができず、自分の2万坪あった土地を失ったのでした。

 

 人の心をつかむのがうまい、ろくでなしトミーの言うことなんか信用しちゃダメだったのに。

 

 人を見る目も、経済感覚もマミーほどはなかったのでしょう。

 

 トミーのつくった紙風船の宿はオープンから6年で倒産しました。

 

  

 <第3部 愛されるろくでなし>

 

  

 それからのち、私はずっとトミーのことを封印してきました。

 

 それを破ったのは、花田先生でした。

 

 最初にお話ししたように、私は去年、花田先生にナレーションのレッスンを受けていました。

 

 先生はとても熱心で、自分軸をはっきり持った、とても変態な先生で、私たちを感性で導いてくださいました。そして、最後の授業のあと、居酒屋さんで謝恩の会を開きました。

 

 その会の締めの挨拶で、自分はある映画監督が大好きだ、と花田先生は目に涙を浮かべながら、その監督への尊敬と愛、深い思いをせつせつと話し始めました。

 

 私は、花田先生が、その監督のことを泣くほど好き!ということにビックリしました。そして同時に、胸の中で眠っていたトミーへの記憶がゆさぶり起こされました。

 

 実は、家ではろくでなし評定だったトミーですが、外では映画のプロデューサーで、私が生まれる前に、花田先生の好きな監督と組んでいくつか映画を作ったことがあったからです。

 

  私は当時のことを直接は知らないのですが、トミーは、自分の書いた本の中で、「当時まだ助監督だった彼の才能を見出し、世に送り出したのは自分だ」と書いています。

 

 まだ売れる前でお金のなかったその助監督を、うちの2階で居候させてあげていたのもトミーでした。お風呂はなく、トイレは共同の、台所のついた6畳の畳の部屋です。

 

 昔はそういう下宿というのが普通にあったのです。しかし、その方の部屋には夕方になると映画関係者がぞろぞろ集まってきて、お酒を飲みながら夜遅くまで討論している。それをマミーは「娘の教育に悪い」と嫌っていて、かつ、彼はお金がなくて、わずかなお家賃が払えず居候状態だったのも、マミーの気に入りませんでした。

 

 人が良く、何事にも鷹揚なトミーは「まあ、いいじゃないか」と彼をかばっていたそうですが、経済観念のしっかりしたマミーは居候監督を追い出してしまいました。他の人に貸せばお家賃が入ってきますからね。

 

 そして、その監督と女優さんの結婚式の仲人をしたのはトミーとマミーでした。

 

 マミーは私にその話をしませんでしたが、確かに、テレビにその女優さんが出ていると、「○○ちゃんはいつまでもきれいね」などと親しげに言っていました。

 

 プロデューサー時代に、映画を作り、その時トミーはたくさんの人に自腹でおごる必要があり、そこで借金を作ってきたそうです。

 

 それがマミーの苦労の始まり、我が家の経済困難の始まりでした。

 

  身内のことながら、私はトミーを木下藤吉郎のようだ、と思うことがあります。秀吉は草履とりから始めて天下を取りましたが、トミーも旧制中学出身で、ろくな学歴も、そして経験も全くないのに、映画のプロデューサーになったからです。ろくでなしとはいえ、愛され、運を味方につける才能は不思議とがあったような気がします。それがどんなところからきているのか…。

 

 マミーは「ロクはただ外面がいいだけだ…」と言っていましたが…。

 

 そもそも旧制中学に通うトミーは、ただの映画好きな少年でしたが、17歳の時、ある映画会社が臨時雇いの給仕を募集している、と教えてもらい、応募しました。給仕というのは社員から頼まれて、たばこを買いに行ったり手紙を出しに行ったりする雑用係です。なので、特別な試験もなく、面接して家族状況を聞かれただけで「では明日から来てください」とすぐに採用が決まりました。

 

 すると、その時トミー少年は「それならば一つ条件があります」と逆に人事課長に条件を持ち出したのです。そして、「僕は夜学で勉強したいんです。ここにいる社員の方のようになりたいのです。」と言ったそうです。

 

 すると「その心掛けが気に入った。それならば、望み通り今すぐ正社員として採用しよう」と急きょ正社員として総務部人事課に採用決定。
戦後間もない頃とはいえ、今なら考えられない話ですね。

 

 その後もトミーは社長に気に入られて、映画、歌舞伎、文楽、新派、新劇、レビュー、新喜劇、などなんでも好きな時に自由に見てよいという特権をもらったり、重役に気に入られて、若干30歳で、いきなり撮影所企画室のプロデューサーに抜擢されたり。

 

 当時は映画の新作が。週に二本封切られていたという時代背景もあるでしょうが、それにしても、臨時雇いの給仕係応募から身を起こし、プロデューサーになるとは藤吉郎のようだなと思います。

 

 しっかり者のマミーが選んだぐらいなので、トミーにも少しは将来性があったのでしょう。

 

  さて、花田先生のレッスン最終日のお礼の会で、先生がある監督の大ファンだという話を聞いて、私の中でないものになっていたトミーの存在が再び目を覚ましました。

 

 花田先生にそのことを話すと「会ったほうがいいわよ。」と背中を押されました。そうはいっても、生きていたらもう88歳。もしかしたらもう死んでいるかもしれないし、生きていても寝たきりとか入院していたりするかもしれません。

 

また、とても貧乏だったり、不幸でいたとしたら、どうしよう?

 

娘として心が痛むような状況だったらどうしよう?などと思いがよぎり、なかなか動くことができませんでした。

 

 そんな固まったままの私の背中を、さらに押したのも花田先生でした。

 

 前回の春のサロン・ド・ビリケン・ネオ用に、ちらっとトミーのことを書いたら、「こんなの全然だめよ!もっとトミーと向き合いなさいよ!!」と却下されました。

 

 すごく悔しかったので、その勢いでトミーに連絡を取りました。

 

 トミーの住所も電話も知りませんでしたが、ネットで名前を検索したら、数年前に本を出版していることがわかり、そこの社長にお願いして、私の書いたはがきをトミーに転送してもらったのです。

 

  「トミー様 その後どうしていますか?

 

私は今ナレーションの勉強をしています。

 

私のナレーションの先生が、うちに居候していた監督さんの大ファンです。

 

なので、よかったら、その監督との思い出を聞かせてください。」

 

  すると、私が出版社経由でハガキを送ってから3週間ほどして、一本の電話がかかってきました。

 

 「もしもし、ユミーさんですか?私トミーと申します。お葉書拝見しました。とってもうれしいです。」

 

 トミーは生きていました!そして私に電話をかけてこられる状況でした。

 

 「お父さん、元気?」

 

 「元気だよ。とっても元気でどこまででも歩けちゃうぐらい、健康には自信があるよ。お医者さんにも60代の体力ですね。若いですねって言われるぐらいで、どっこも悪くないんだよ。」

 

 「それはすごいね、よかった。今どこに住んでいるの?」

 

 「今は安曇野の県営住宅に住んでいるんだけどね、なんと。運のいいことに、県営住宅で一番広い、いい部屋が当たったんだよ。くじ運がいいね。」

 

 トミーはあいかわらずポジティブです。いつでもいいことに焦点を合わせています。

 

 「そうなんだ、さすがだね。でもそんな大きな声で電話して大丈夫なの?奥さんはどうしているの?」と聞くと「大丈夫だよ。奥さんは隣の部屋で寝ている。重い腎臓の病気で寝たきりなんだ。部屋が別だから聞こえないよ。それでね、あの監督の話を聞きたいってことだけどネ、あの監督は僕が仲人をしてやったんだよ。結婚式には映画を見た観客が押し寄せてきちゃてね。もう大変だったよ。ナレーションの先生にぜひ監督の話をしたいので、東京に会いに行くよ。彼の書いた本も4冊持っているから先生に貸してあげる。」

 

 と、大よろこびの大はりきり。

 

 私は「花田先生がいつならいいか相談して、また連絡するね」と言って電話を切りました。

 

 電話を切った後、私は幸せな気持ちでした。

 

「監督は僕が仲人してやった」と5回も言うので、トミーも年を取ったんだな思いましたが、全く消息不明だったトミーとすんなり連絡が取れ、会えることにもなり、大きな課題を一つクリアした思いでした。

 

 会うのはいつがいいか、さっそく花田先生に連絡しよう。などと思っていると、そこに一本の電話が…。

 

  「もしもし、ユミーさんですか?私トミーと申します。この度はお葉書をありがとうございます。とってもうれしく拝見しました。それでね、監督の話を聞きたいということなんだけどね、彼は僕が仲人をしてやったんだよ。結婚式には映画を見た観客が押しかけてきちゃってね。それは大変だったんだよ。」

 

 ちょっと待って、お父さん、その話さっき聞いたよ?さっきも電話かけてきたよ。

 

 「え?そうだっけ」

 

 「そうだよ。監督の本4冊持ってるんでしょ。それで今度東京で会おうねって話になったじゃない。いつがいいか、ナレーションの先生と相談してまた連絡するからねって言ったんだよ。」

 

 「え、そうだったかな。そうかい、わかったよ。」

 

 電話を切った後、私は「お年寄りだから、短期記憶が悪くなっているんだな…。大丈夫かな…。」と一抹の不安を覚えました。

 

  すると、その日の数時間後、また一本の電話が…。

 

 「もしもし、ユミーさんですか。私トミーと申します。先日はお葉書ありがとうございました。とってもうれしく読みました。」

 

  トミ~~~!!どっこも悪くないって言ってたけど、それ、違うよね??!!明らかに脳機能に問題があるよね???!!!

 

  私は、これ以上電話がかかってくると困るので「お父さん、そのことで電話もらったの、今日3回目だよ。どうしたら電話したって憶えていられるかな?」と聞くと「そうかい。わかったよ。もう電話しないよ」と言うので、あのね、もう私に電話したってわかるように手帳とかメモに書いておいたら?というと「わかったそうする」と言って電話を切りました。

 

  しかしその翌日また電話が…。

 

 「もしもし、ユミーさんですか。私トミーと申します。先日はお葉書ありがとうございました。とってもうれしく読みました。」………。

 

どうしよう~、このまま一生、何度も電話がかかってくるのかしら?

 

 私、もしかして大変なことしちゃったのかしら??

 

 私はトミーに、昨日もそのことで電話をもらったことを説明し、もう電話済みと書いたメモはどうしたの?と聞いたら、「メモ…??どこへやったかな…。忘れちゃったな…。」というのです。

 

 トミ~、しっかりして~!!!

 

 そこで私は言いました。「そのハガキ捨ててくれる?」

 

 ハガキがあるから何度でも電話してきちゃう。だからもう、ハガキはトミーの目の触れないところにやった方がいいと思ったのです。するとトミーは急に不機嫌になり「わかったよ、もう電話しないよ」と少し怒って電話を切りました。

 

 たぶん、私からのハガキが宝物だから捨てたくなかったのでしょう。

 

そして、私と会うのが楽しみで楽しみで仕方なくて、遠足に行く子どものように、まだかまだかって思って、無意識のうちに何度も電話かけてきちゃったんでしょう。

 

ちょっと強く言いすぎちゃったかなと思いながら、しかし、やっとその件では電話はかかってこなくなり、ホッとしました。

 

 その後、花田先生のご都合を伺い、330日のお昼にトミーと会うことになりました。場所はトミーの生まれた水天宮前。トミーは水天宮から徒歩30秒のところで育ったのです。でも、電話だけだとすぐ忘れちゃうので、トミーには電話した後に、手紙も送りました。トミーは携帯で電話はかけられるけど、メールはできないのです。

 

  「トミー様 監督との映画作りにまつわる話をしてください。

  楽しみにしています。よろしくお願いします。

 

行き方はこちらです。

 

 330() 07:03発JR大糸線に乗り、松本で降りる

 

 松本8:00発スーパーあずさ6号に乗る。新宿10:38着。

 

到着ホームにユミーが伺います。 2017.3.13 ユミー」

 

  この手紙を見れば、ちゃんと来られる。と思ったのですが、手紙が着いた頃に電話したら、トミーは手紙をどこかに無くしたので、もう一度送って欲しといいます。

 

それで、再度手紙を送りました。

 

しかし、トミーはすぐに記憶がなくなってしまうし、「奥さんも重い腎臓病で、やっぱり丸一日放っておけない」というので、東京で会うのはあきらめました。

 

 私が松本まで行って、トミーにも松本に来てもらうことにしました。

 

 電話で話すと「わかったよ。大丈夫だよ」ということになり、松本で待ち合わせる時間を書いたハガキを送ったのですが、読んだら電話くださいと書いても、電話が来ない。変だなと思いながら、こちらから電話すると、電話にも出ない。

 

 10回ほど呼び出し音が続いていた後に「ただいま運転中なので電話に出られません。」という音声が流れます。おかしいな、車持ってないのに…。

 

 それでも、何度も電話をかけていたら、ある日つながり、私がもしもし、というと女の人の声が「もしもし」と返ってきました。しまった!奥さん!?奥さんには私のことは内緒なので、あわてて切りました。

 

 すると、すぐに向こうから電話がかかってきて、女の人が「だれ?だれ?」と言っています。私は無言で電話を切りました。ヤバいことになった…。

 

 そのあと何日か日をおいてまた電話したら、今度は「ううぅぅ~、ううぅぅぅ~」という女の人のうめき声がします。奥さんの声でした。どうやらトミーの携帯は奥さんの手に握られてしまったらしい…。

 

 この時点で、330日に会うことはあきらめました。

 

 その後も、ハガキでも電話でも連絡が取れなくて、つながったと思うと奥さんの「ううぅぅ~」うめき声で…

 

 そんなことが続いていた4月のある日、ついに私は意を決しました。

 

 このままトミーと連絡をとれるのを待っていても仕方ない。奥さんにばれるなど、何らかの事情で連絡が取れなくなったのだ。これはもう突撃訪問するしかない。

 

 トミーは特に用もないので毎日家にいるだろう。トミーの最寄り駅まで行って、電話しよう。もし、奥さんが電話に出たら、ちゃんと事情を説明しよう。別に不倫しているわけじゃない。父と娘が会うというだけのことで、悪いことはなにもしていないのだから、奥さんにわかってもらおう。そして、駅前のお店でトミーとご飯でも食べよう。もし万一、トミーが出かけて不在だとしても、どんな所に住んでいるか見るだけでもいい。

 

  決行日は4月23日日曜日。日曜日ならお医者さんに行っているということもないでしょう。

 

 当日、私は朝6時の電車にのり、スーパーあずさで松本へ。そこからJR大糸線に乗り換えて、いざ、トミーの住む最寄り駅へ。

 

途中の車窓からは壮大な日本アルプスが見えて、初めてみるその美しさは感動的でした。

 

 トミーの最寄り駅へ着いたのは午前10時半。ちょうどいい時間です。ぽかぽかの日差しが気持ちいい、よく晴れた穏やかな日でした。

 

 私は改札を出ると、祈る気持ちでトミーの携帯に電話しました。

 

 すると「もしもし」と奥さんの声。もう腹を決めるしかありません。私は落ち着いて言いました。

 

「私ユミーと申します。トミーの娘です。」

 

 すると、奥さんは「え?なに~?!だれ~?!もう一回言って~?!」と言っています。腎臓病の影響で耳がとても悪いようでした。

 

 そのあと何度繰り返して言っても全然聞こえないようなので、「トミーに代わってください」と言ったらそれは聞こえたようで、電話を代わってくれました。

 

 トミーが出ると「もしもし、お父さん、ユミーです。今、最寄り駅にいます。」と言いました。

 

するとトミーはすごくびっくりして、「ユミーってあのユミーか。今駅、駅にいるんだね。じゃあ今から行くから待ってて!」と言ってくれました。

 

 ところが電話の向こうで「誰?誰から?何?なんで駅に行くの?ちょっと代わって。どういうこと?!」という奥さんの怒鳴る声が聞こえます。

 

 トミーが奥さんに「娘が来てるんだ。」というと「何?なんて言ってるの?どういうこと~?」と、トミーの言ってることが聞きとれないようです。「僕の娘だよ。娘が来てるんだ」とトミー。しかし

 

 「え?なに?どういうこと?」

 

 「娘が来ているから、今から駅に行くから」

 

 向こうで揉めています。私はいったん電話を切りました。

 

 するとすぐに奥さんから電話がかかってきて、「何~?!誰~?!どういうこと~?」と言ってくるのですが、「私はトミーの娘です。」といくら大きな声で説明しても聞こえないので、電話を切りました。

 

 そして、駅前の観光案内所のベンチでトミーが来てくれるのを待つことにしました。

 

 しかし…。10分たっても20分たってもトミーは来ません。家は駅から数分の距離と言っていたのに…おかしいな。

 

 30分がたち、もう11時を過ぎています。待っていても仕方ないようだ。

 

 片道4時間かけてここまで来たんだから、一目でもトミーに会って帰ろう。そう思って、私はグーグルマップを頼りにトミーの家まで行くことにしました。

 

 初めて来たところですが、よく晴れ渡った青い空に、雪を抱いた日本アルプスの山々が美しくそびえています。田んぼの畔には菜の花が咲いて蝶々が飛んでいます。そんな景色を眺めながら歩くと県営住宅があり、私はトミーの家の前まで来ました。

 

 ピンポン。

 

チャイムを鳴らすと、車いすに乗った女性がドアを開けてくれました。奥さんは寝たきりと聞いていたけれども、車いすで起きていられるようでした。私は腹をくくりました。

 

 奥さん:はい、どなた?

 

 わたし:私ユミーと申します。トミーの娘です。

 

 奥さん:え?だれ?!何?どういうこと?

 

 わたし:私はユミー。トミーの娘です。

 

 奥さん:え?なに?どういうこと!!どういうこと~?!

 

 奥さんは、突然見知らぬ女が現れたので、興奮してパニック状態。

 

奥さんの後ろには、トミーが立っていて「さっき電話くれた人?」とわたしを確認すると、奥さんに「これは娘。僕の娘だよ。」と言っているのですが、奥さんには全くその単語が聞こえないのです。

 

「え~?え~?!なに~?どういうこと?」と不安に駆られています。

 

 押し問答していても仕方ないので、私は、トミーの書いた本を取り出しました。すると奥さんは急に静かになり、私が「私この本の読者です。素晴らしいご本だと思って作者を訪ねてきました。」と言ったら、今度は奥さんにすんなり聞こたのです。

 

 「ああそうだったのね」と、奥さんは突然、友好的な態度になりました。

 

 そして、「ごめんなさいね、この頃変な電話が何度もかかってくるもんだから勘違いしてしまって」とわたしに丁寧に謝り「上がっていって」と言います。

 

 いや~、そのあやしい電話したの私なんですが…と心の中で思いつつ、できればトミーと二人で話したかったので「いえ、突然お邪魔してそれは…。外ででも…」と言ったのですが、二人で会わせるのは嫌なようで、無言の圧力で「あがって、あがって」と何度も言うので、私は成り行きに任せてお家に上がらせていただきました。

 

 思いがけずトミーの住んでいる家を見られるなんて、それはそれでラッキーかもしれません。ダイニングキッチンのイスに座り、そこに、トミーとわたしと、車いすの奥さん。

 

 こうなったら、読者と著者として会話をするしかありません。

 

 私は「このご本を読ませていただきました。とても感銘を受けました」などと言って話し始めました。

 

 トミーは、さっき駅から電話くれた人だよね?と念を押しつつ、著者として私のインタビューに答えてくれます。

 

 後ろで奥さんが、カチャカチャと食器を用意して、インスタントコーヒーをいれてくれています。

 

 出来上がったコーヒーを出してくれて、私にどうぞ、と勧めてくれます。

 

 そして改めて、「さっきはごめんなさいね。この頃変な電話がかかってきたり変な手紙が来たりするもんだから。町内会長の山崎さんに相談したら、そういう電話には出ないほうがいいって言われて。無視することにしたの。嫌でしょう、そういうの。それで、ついさっきもそういう電話がかかってきたばかりだったから、その人かと思っちゃって」と何度も謝ります。

 

 私はその本人だとも言えず、そして、奥さん、こわい人かと思ったら本当はいい人なんだなと思って「いえいえ」などと適当なことを言ってごまかしました。

 

 トミーは奥さんのいれてくれたコーヒーを一口すすると、「おいしいね~。これ何?これコーヒー?え?これ何?」と何度も確かめています。そして「うんまいっ!!」と奥さんのコーヒーを、まるで、「こんなにおいしいコーヒーは生まれて初めて飲んだ。これは世界一のコーヒーだ!」とでもいうような感動ぶりでほめるのです。

 

 うまいも何も、瓶入りのインスタントコーヒーをスプーンですくってお湯を注いだだけなのですが、まるで一流のバリスタが入れた極上のコーヒーを味わったかのように、「全く感に堪えない」という様子で、腹から都はるみが唸るがごとく、「うんまいっ!!」というのです。

 

 私はそれを見てハッとしました。もしや、トミーが映画を作ったり、社長になったり、本を出版したり、人生でいくつもの夢を叶え、運を引き寄せてきた極意は、ここにあるのではないか…。

 

 コーヒーかどうかもわからないほどの味覚の感度なのに、心から感動して「うまい」という…。これはなかなかできる芸当ではありません。

 

 そもそも、よく考えたら、この奥さんはトミーのせいで2万坪の土地を失っているのです。

 

 夫のせいで先祖代々の財産を無くし、闇組織に追われ、にもかかわらず、夫婦仲はとてもいい…。

 

ふつうなら考えられません。

 

おそらくトミーは奥さんのすることを、どんな小さなこともいつもこうしてほめ、感謝し、ねぎらっているのでしょう。

 

 ここで、私たちも、ちょっとまねしてみましょうか。運を引き寄せるコツを練習してみましょう。私が見本をしますから、そのあと続けて言ってみてくださいね。コツは腹から声を出して、こぶしを利かせることです。

 

 ★奥さんがご飯を作ってくれた。味はよくわからないけれど、一口食べて「うんまいっ!」はい。(皆さん「「うんまいっ!」」)

 

 ★旦那さんがちょうつがいを直してくれた。ちょっと曲がっているけど、「うんまいっ!」はい。(皆さん「「うんまいっ!」」)

 

 ★会社の上司がしょうもないダジャレを言った。みんなドン引き。でも、あなただけは「うんまいっ!」はい。(皆さん「「うんまいっ!」」)

 

 ……さて、話をトミーの家に戻しましょう。

 

 私は、一読者としてトミーにいろいろ話を聞きました。トミーが話したことは、シナリオづくりの基本、監督との映画作りの思い出、トミーはどんな時にアイデアを思いつくか、などでした。

 

 私は「80代で本をお書きになるなんてすごいですね。自分には無理と思ったりすることはありませんか?もう何歳だから自分にはできないかもしれないと思うことはありませんか?」と聞いたら

 

「それはない。そんなこと思うぐらいなら最初からやらないほうがいい」と即座に答えが返ってきました。

 

トミーのそういうねっからのポジティブさも、「夢を叶える運」を引き寄せてきたのでしょう。

 

 最後に、本にサインをしてもらいました。

 

奥さんにお礼を言っていとまごいをし、玄関に行くとトミーはのんきに「また来てね~」と言いました。

 

 ほんの40分程の訪問でしたが、私にはとてもいい時間でした。

 

 私の心はトミーに会えたという満足感でいっぱいでした。

 

 帰りに、遅い春の盛りを迎えた、安曇野の満開の桜を見て、温泉に入って帰ってきました。

 

 帰りの特急あずさの中で、私はそば茶を飲み、お焼きを食べながら、あることに気づいて一人で笑いました。

 

 奥さんがガミガミいう感じがマミーにそっくりだったのです!そうか、トミーはそういう気の強い女の人が好みなんだね!

 

 子どもの頃は、トミーにちょっと同情していたけれど、そうされるのが好きだったとは!

 

 そして、トミーは私を迎えに駅に来てくれると言ったのに、結局奥さんを説得できずに、家を出てこなかった。そういうところ、昔と全然変わっていない。女房に頭の上がらない気の弱いところ。ヘタレなトミー。

 

 そして……結局トミーは娘の私よりも、奥さんを選んだのでした。
13歳の時も負け、そして、今回も迎えに来るって言ったのに、結局は奥さんを大事にした。

 

 負けた、負けた。うふふふ……。

 

でも、私の心は喜びでいっぱいでした。

 

 負けたけど、トミーが奥さんを心から愛して大事にしていることがわかり、すごく幸せそうだったので、そんなトミーが見られて満足でした。

 

 トミーが幸せなら、私も幸せ…。

 

 昔は、私にはお父さんがいないって思ったり、ああして欲しかった、こうして欲しかった、と思ったりしていたけど、それは私の欲だったのでした…。

 

 トミーは生まれてきてくれて、私に命をくれた、そのことが最大の贈り物であり、それで十分だったのです。

 

 私のすべての細胞はトミーから分けて作られたもの。いつだって一緒です。

 

 トミー、生まれてきてくれてありがとう、そして生きていてくれてありがとう。  

 

また今度、次は息子も連れて行くね。本の愛読者として。

 

 ヘタレな、そして、ろくでなしのトミー大好きだよ~!!!

  

 

               END 

 

 

 

  ◆花田の後書き(^_^.)m(__)m

 上記 原稿は2017年8月13日夜、サロン・ド・ビリケンにてミカエル・ユミさんが語って下さったものを、固有名詞などを極力避けて書き直していただいたものです。感謝に堪えません。僕には奇跡です。

 ついでですが、水天宮のある街が、ミカエルさんの父上、トミーさんが生まれ育ったところらしいのですが、

わたくし花田、もう何年も何年も前の話なのでつが・・・・

知り合いの待望の懐妊を聞き、戌年生まれの小生、かの水天宮に お腹に巻く「さらし」やらのグッズ一式をもらいに行き、お祝いに差し上げたことがあるのです。

  

その際に・・・。3月下旬春だったのですが、

小さな祠がいくつか本殿の手前にありまして、

 

それにひとつひとつお参りをしていたわらくしに、

ある祠の前にて柏手を打ち、手を合わせた瞬間、

神社の敷地の外からの突風がゴオオおおッ!と吹き上げて、わたしの全身に桜の花びらが、どわああああ!と降りかかり、その時境内にいた人から拍手が沸き起こりました。そのあと、近くの喫茶店に入り、頭を鏡で見たところ、桜の花びらがたくさん、突き刺さっており、

こりゃ目出度い、ううううむむむむ・・・・・

(無条件幸福っな予感かんかんかんかん・・・・)

 

と、つくづく感じ入っておりました。

 

 その後、その街のとある店で、他界した俳優の又野誠治 (僕には、フォークロア的意味で何かと縁のある人物) のことが好きだったと云う元『映画きゃめらマン』(←映画の変態さんって何故かカメラって云わないんだよね。キャメラっつうんだよね)の人の店 (そのお店の地下にはなんとミニ・シアターがあって、時々内輪的に上映しているらすい。見せてもらいました) に遭遇し又野のとんでもエピソードを聞いたり、他にも色々、うっしっし、な、目出度いことがあったのですが、それだけではなく、こんなに時を経て、

まさか、あの世界に名だたる映画監督が若き日に御自宅に居候していた方、ミカエルさん、と出会っていたなんて、マジに感慨深い2017年なのであります。この物語の主人公『トミー』さんが、その著書で記していらっしゃる、わたくしお気に入りの描写を最後に引用させて下さい。

 

 

  ・・・・・・・Oが手招きをした。

 

「とみーさん。ここへ座って」

 

 とみーがNとOの前に座るとOが真顔で言った。

 

 「今度は迷惑をかけたね」

 

 Nもとみーに声を掛けた。

 

 「とみーさんが真面目でいい人だっていう事がわかったよ。握手しよう」

 

 Nが手を出した。とみーは嬉しさと感動で目がうるんだ。握手をすると一斉に拍手が起こった。すると、バシッというシャッターの音が聞こえた。音のした方を見ると、船の舳先に松子と竹子が並び、松子がカメラを構えていた。(あっ)と驚くとみーの手をOが握った。またシャッターの音が聞こえ、拍手が沸き上がった。とみーは感動しながら舳先を見たが、もう、二人の姿は見えなかった。

 

 「ありがとうございます」

 

 とみーはNとOに、これだけ言うのが精いっぱいだった。とみーの暗い気分はすっかり晴れていた。

 

 青い海。

 

 船は、おだやかな東京湾の海上をのどかに走っている。

 

 やがてお台場に近づいた。見渡す限り、イカダの列だ。

 

 材木が海を蔽っている。実に壮観だ。

 

 突然、Oが立ち上って叫んだ。

 

 「これは凄い! 画になる! Mさん、よく見ておいてね!」

 

 とみーには、Oが何故興奮しているのか分からなかったが、それからしばらく後に制作した映画作品『S・・・』では、このお台場の材木の上で、Yと女優Mが命がけで争う場面が撮影され、後世に残る名場面となったのである。・・・・・

 ・・・・・・・・

 

 ≪わたくし花田には、このシーン・・・若き天才監督Oが思わず立ち上がって叫んだその瞬間を、それが何故なのかは分からずとも脳裏にしっかりと刻んだ、やはり新米のプロデュ―サーの高揚、興奮、感動が伝わって来るようで、すっごく好きな描写なんです。ミカエル・ユミさん、そして、我らがとみーさん、本当にありがとうございます!オイリーはなこと花田光 拝≫