ぼりちゃん先生の新作!
2024年3/23
サロン・ド・ビリケンで読んで下さいました。
★ノンフィクションに徹底なさっています。今のところ!一部明らかに誤植が見受けられますが原文ママ掲載いたしました。後日訂正いたしますm(_ _)m
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「麺結び」
祖母の一周忌法要を済ませ、私と叔父は居間で二人お茶を飲んでいた。出席者が皆帰ってしまった後、賑やかだった家の中は静まり返り、ただ僅かにお香の香りだけが漂っている。
「ばあちゃん、ドーナツ食べるとき、いつもプレスリーの話をしてたね」
テーブルの上にある砂糖をたっぷりまぶしたミニドーナツを手に取り、叔父が唐突に呟いた。
「プレスリーはえらい男前だったけど、ドーナツの食べ過ぎで死んじゃったんだよ」そう言いながらプレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」の鼻歌を歌ってくれた祖母の記憶が蘇った。プレスリーの曲は「ラヴ・ミー・テンダー」のほかは「ハートブレイク・ホテル」くらいしか知らなかったが、真偽不明の彼の死因だけはよく知っていた。
ドーナツとプレスリーだけではなく、祖母の記憶に食は強い結びつきがある。それには昭和一桁世代で戦中戦後の食糧難の時代に育ち、食堂や料亭、食品会社で働いた祖母の経験も色濃く反映されていたからかもしれない。料理一つとってみても青パパイヤやらアボカド、昔どこで買ってきたのか、沖縄の苦瓜を使った料理も日常的に食卓に上がっていたと、母からよく聞いていた。私も幼少期から祖母の元に遊びに行くたびに、手料理を食べさせてもらっていた。幼稚園年少の時に母が病気で入院し、一月ほど祖母に預けられた時には、ぷっくり太ってしまい、迎えに来た病み上がりの母を呆れ顔にさせてしまったこともあった。祖母の口癖「食べられるときに食べときな」は戦中育ちの祖母の生い立ちから妙に説得力がある言葉だった。十年前に母が亡くなってからは、家事が不慣れな父と私を気遣い、ご飯を作りに来てくれたこともあった。
「ばあちゃんの中華そばしばらく食べてないなぁ・・・」叔父が言う中華そばも祖母を思い出すものの一つだった。鶏だしや煮干しなどから出汁をとったスープに麺は近くの製麺所で買って来た中華麺。具材はチャーシューにメンマと刻み葱、ほうれん草に鳴門巻き。町中華で出て来そうな典型的な中華そばだった。亡くなった祖父が建具の工務店を経営していた頃、訪ねてくる若手の銀行員に振る舞い、担保なしの借入れを取り付けた逸話もあった。
確か祖母が亡くなる前、私に作ってくれた最後の料理が中華そばだった。ただ、中華そばと言っても袋麺を使いスープも付属の粉末スープ、具材も葱と卵、茹でたほうれん草だけの至極シンプルなものだ。
祖母は亡くなる3年ほど前から認知症を患い、仕事の関係で長らく海外に赴任していた叔父が定年退職を期に帰国し、介護のため祖母と同居するようになった。私も仕事の合間を縫い祖母の家に顔を出すようにした。祖母の中華そばを食べ、帰り際に「また会おうね」と固く握手するのが、いつしか常になっていた。
「ばあちゃんの中華そばってよく食べました?」
私の問いに叔父は何度も頷いて、もうお腹いっぱいと言わんばかりの少し苦し気な表情をしてみせた。どうやら祖母と同居していた叔父は、ほぼ毎日祖母の作った中華そばを食べていたらしかった。
「久しぶりに作ってみようか」
叔父がおもむろに席を立ち、台所の棚からピンク色の電磁調理器を持ってきた。卓上で鍋物などを調理するためのもので、ⅠHではなく、渦巻き状のニクロム線が赤く発熱するタイプだ。使い込まれて年季の入ったものだが、東芝88年製と書かれたシールが貼られていたので、私と同期だということがわかった。
祖母はこの電磁調理器を使って中華そばを作っていた。直火を使うのは危ないからと、叔父が祖母にケトルやこの電磁調理器を使わせていた。
叔父が台所で葱を切っているあいだ、私は雪平鍋と雷紋が描かれたどんぶりを用意してからケトルでお湯を沸かした。鍋にお湯を注ぎ、電磁調理器の上に乗せて、最大出力600ワットにツマミを合わせた。
叔父が解凍した冷凍ほうれん草と小口切りにしたネギに卵、袋麺2袋を持ってきた。これで準備万端。袋麺の封を切って沸騰したお湯に乾麺、続いて粉末スープを入れた。
鍋を眺めながら、背中を丸くしテーブルの上で中華そばを作る祖母の姿を思
醤油スープの匂いが部屋のお香の残りが交じりあう。なんとも形容し難い香りだが、何故だか少し涙が出る。祖母が確かお仏壇に線香を上げた後もこんな匂いがしていたような気がする。
ネギを入れてから3分待つ。そして卵を割り入れて、少し煮立たせて半熟にしたら完成。菜箸を使ってお椀に取り分けた。
叔父と男二人で中華そばを啜った。同じインスタント麺なのに、祖母の作ったものには風味を含めて及ばないような気がした。しかし、まだ祖母の味の記憶がまだ舌に残っていて安心もする。
法要の後の食事がインスタント麺なのが、なんだか素っ気なく、そして可笑しく思えた。ただ、法要の後の食事は故人を偲ぶものだから、きっと祖母もこの光景をどこからか眺めて喜んでいるかもしれない。
なぜ祖母が私に作ってくれた最後の料理が中華そばだったのか。ふと疑問を抱いた。認知症が進み、祖母の頭の中にあったであろうレシピの多くが失われてしまい、単純にインスタント麺は作るのが簡単だからという理由なのだろうか。しかし、昔から料理に手をかけていた祖母なだけにそれは考えにくい。作り方よりも中華そばということに意味がありそうだった。
「ばあちゃん、昔食堂で働いていたから、そこに何かきっかけがありそうだな」「大阪のですか?」
スープまで飲み干した叔父が頷いた。戦後間もないころ、大阪にある食堂で働いていたということを祖母から聞いていた。食堂経営が初心者だった店主から声を掛けられて働き始めたらしく、今風に言えばヘッドハンティングというところか。祖母は当時若干15、6歳の少女だった訳だから、なぜそのような経緯になったのかは分からない。家計を支えるため、闇市か何かで営業していた食べ物屋か何かで働いていたらしいから、そこで料理の腕を振るっていたのかもしれない。
奥歯に挟まったネギを舌で取りながら、祖母の育った街を一度見てみたいと思った。ついでに中華そばについても何か手がかりを得られるかもしれない。
「一緒に大阪行ってみませんか」
そう私は叔父に提案した。
「おじさんはお腹いっぱいだからいいや。一人で行っておいで」
テレビを見始めた叔父がちょっと素っ気なく答えた。叔父の態度から自分は一度行ったことがあるからいいと言いたかったのだと解した。
しばしの沈黙を経て、叔父が私の方を振り返り、プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を鼻の穴を膨らませながら歌った。洋楽から戦前の流行歌、そして演歌まで祖母の音楽の好みはボーダレスというか実に幅広い。
戦後、アメリカ文化が流入してきた影響もあるのか。時代背景の複雑さも物語っているように思えた。
翌週、私は夜行バスで大阪へと向かった。途中渋滞があったものの、朝の九時に定刻通り難波のバスターミナルに到着した。車内では目が冴え、一睡も出来なかった。寝不足でふらつきながら通勤ラッシュの人ごみの中を縫って南海電車の乗り場へと歩く。まずは祖母ゆかりの地を訪ねてみるつもりだった。祖母が育った高師浜までは難波から電車に乗り三十分の道のりだ。
大阪府泉北郡高石町高師浜。現在の高石市高師浜は祖母が曽祖父の仕事の都合で東京から引っ越し、再び東京に戻るまで十五年ほど暮らした街だ。
電車に乗り、途中羽衣伝説に由来する羽衣駅で下車した。妖艶さを感じる羽衣の地名だが、駅は数年前に高架化され、典型的な都市近郊の高架駅になっていた。羽衣駅からは高師浜行きの電車に乗り換える必要があった。
「おかしいな」改札前まで来てみて足が止まった。肝心の高師浜行きのホームが見当たらなかった。まさか無くなった訳ではないだろう。羽衣伝説には天女の美しさに心を奪われた男が羽衣を隠す一説もあったが…そういらぬことを考えながら案内板を探した。
結局駅員に尋ね、高師浜行きの電車が高架化工事のため長期運休していることがわかった。代行バスの乗り場に案内され、出発直前のバスに飛び乗った。
バスは十分ほどで高師浜駅近くのバス停に着いた。私が降り立つはずだった高師浜の駅舎はすっかり工事の衝立に囲われていた。上部にステンドグラスがはめ込まれた洋風駅舎は大正時代の鉄道開業時に建てられ、祖母が暮らしていた頃と変わらないはずだった。
駅周辺は街路が整然と張り巡らされた閑静な住宅街になっている。海が近いこの地はかつて、大阪市近郊の別荘地だったと聞いたことがあった。生垣に囲まれた邸宅もあり、わずかながら戦前の面影を留めていそうだった。私は淡い期待を抱き、祖母が昔住んでいたという場所まで行ってみた。しかし、真新しい戸建て住宅が建つ区画になっていて痕跡を窺い知ることは叶わなかった。七十年近くの時を経て、土地の歴史は幾重にも上書きされてしまっていた。
昼下がりの住宅地をうろうろするのも躊躇われたので、近くの公園のベンチに座った。駅前の自動販売機で眠気覚ましに買っておいた缶コーヒーを飲んだが、甘ったるいコーヒーは逆に眠気を誘った。
祖母の大阪での少女期の話は断片的なエピソードしか聞いたことが無かった。「この公園って鍋を集めてたってとこかな」私はふと思った。祖母から聞いた戦時中の金属供出の話だ。戦争遂行には欠かせない金属を確保するため、政府が発した勅令により、鉄柵や銅像、果ては日用品に至るまで供出の対象になった。祖母の家でも少しばかり協力しなくてはならないと、芋をふかしていた鍋を持って行くことになった。穴が空きそうなボロ鍋を選び、祖母が収集場所の公園に持って行った。しかし皆同じことを考えていたらしく、公園にボロ鍋の山ができていた。「こりゃあかんな」小学生の祖母にしても戦局の不利を悟った。このころから大阪市や堺市にも米軍機が来襲するようになり、街が焼かれていった。
缶コーヒーを飲み終え、私は再び腰を上げて公園を後にした。次は祖母が兄妹と釣りをしに行った海へ行くつもりだった。なぜだか足取りは軽い。糖分を摂取したから疲労が取れたのか。そんなことはあるまい。
あそこは確か祖母が通っていた小学校か。校庭で配給の列に並んでいた時に横入りしてきたおっさんに「大人なんやからちゃんと並びぃ」とピシャリと注意した話も聞いたっけな。高師浜の街を歩きながら、いくつものエピソードが一つの線で繋がっていった。この足の軽さは祖母が背中を押してくれているからのような気がした。
潮騒は聞こえないものの、海のすぐ近くまで来ていることはわかった。配給の饐えた臭いのする魚だけでは、腹は満たせず兄妹でよく海へ小魚を取りに行ったと祖母が話していた。白砂青松の四字そのままの風景が祖母の記憶にはあった。
視界の先、体育館の背後に松林が見えた。もうすぐだ。私は大人気も無く全力で駆けた。
松林を抜けてからすぐ私の足は止まった。目の前には高速道路が通り、工場が立ち並んでいる。海は浜寺水路と名を変え、文字通り水路のように狭まっていた。
私は段々になっている護岸に腰掛けた。近くを歩いているおっちゃんが何か鼻歌を歌っている、メロディーから上田正樹の「悲しい色やね」の一節「大阪の海は悲しい色やね♪」だと分かった。なんだか出来過ぎたオチだなと一人で笑ってしまった。水路を行く漕艇のボートを目で追いながら、旅の初日早々どんつきまで来てしまったような気がした。
小腹が減った。時刻はすでに昼を過ぎていた。中華そばについて手掛かりを得るため私は祖母が働いていた食堂があった堺市へと向かうことにした。
堺駅近くを流れる川沿いに、一軒のタコ焼き屋があった。小腹を満たすのに好都合だったので立ち寄ることにした。店内にはカウンター席があり、酒類も出している居酒屋のような雰囲気のお店だった。
私は席につき、たこ焼きとハイボールを注文した。「お客さんどこから来はったん?」店主のおっちゃんに聞かれた。店内は私一人で、夕方の早い時間から飲む客が珍しかったのだろうか。関東から来たと伝えると、「旅行それとも仕事?」と畳み掛けるように問われ、祖母が昔暮らした高師浜を訪ねに来たと答えた。
「高師浜えぇところやな」店主がたこ焼きとハイボールのグラスを私に渡しながら唸った。熱々のたこ焼きで火傷しそうな口中をハイボールで冷やしつつ、店主と戦中戦後の堺界隈の話になった。
「店の裏に川が流れてるでしょ。空襲の時ようけ人が飛び込んでなくなったらしいですわ」店主はそう言いながら、ピックでたこ焼きをひっくり返した。終戦の一月前に堺大空襲があったことは祖母からも聞いたことがあった。
「おふくろもこの近くで被災したんやけど、ここで倅の自分が色んな人に助けられながら商売してるのも何かの縁だと思いますわ」
縁という言葉が私の頭の中に残った。そのうちにも何人か、地元客らしき数人がたこ焼きを買っていった。
しばらくすると再び引き戸が開き、年配の女性が一人店内に入ってきた。「こんばんは」と返す店主の口ぶりから女性が店の常連客だと言うことがわかった。
「こちらからのお客さん、関東から来はったそうですよ」店主が席についた女性に私を紹介した。「そうなん。えらい遠くから」そう言ってから女性は名刺を取り出し私に渡した。名前の隣に「菓子店オーナー兼絵本作家」と書かれている。私も色んな人と名刺を交わしてきたが、初めて見る肩書きだった。
私が大阪に来た目的を伝えると興味を持ってくれた。女性は堺市内で夫とともに長らく割烹料理店を営んでいたが、夫の死を期に店を閉じ、一年ほど前、跡地に豆菓子を扱う店を開いた。かねてから夢だったという絵本作家業は最近始めたもので、先日念願の一冊目を出版したばかりとのことだった。
祖母の食堂の件を話すと、昔義理の母が堺市内で食堂をやっていたと記憶を辿るように話してくれた。詳しく聞けば店の名物メニューが中華そばで、東京出の少女が一人働いていたなど偶然の一致があった。
お酒を飲みながら店主も交え、話が盛り上がった。しかし、今日の酒は美味いと、調子に乗ったのがいけなかった。いつの間にか意識が途切れ途切れになり、はっと目が覚めると、すでに店内に女性の姿は無く、店主がテーブルのグラスや皿を片付けている。
私が財布を出そうとすると「お客さんの分もお代は頂いております」台拭きを洗いながら店主が答えた。少し酔いが覚め、しまったと思った。テーブルの上の名刺を名刺入れに収めながら、明日お礼に伺わなきゃならないなと思った。女性に引き合わせてくれた店主に礼を言い店を出た。
翌朝、私は女性がオーナーをつとめる菓子店に出向いた。路面電車に乗り、橋の手前にある停留所で降りた。名刺にある住所を頼りに道を進んでいくと路地の先に店名が書かれた看板が見えた。
お店は黒い板塀に囲われていて、いかにも元割烹料理店の店構えだった。門をくぐり静かにガラスの引き戸を開けると店の奥から着物に白い前掛けを付けた女性の店員さんが出て来た。私が昨夜の件を話すと、窓の近くにあるテーブルへと案内してくれた。カウンターにあるガラス張りのショーケースの中には色とりどりの豆菓子が並べられている。テーブルについてすぐ、煎茶と豆菓子が出された。菓子はカシューナッツに味噌や黒糖を絡めたものだった。
「少々お待ちくださいませ」店員さんは再び暖簾をくぐり、店の奥に戻っていった。
しばらくしてから足音がし、「来ていただけると思った」と昨夜の女性の声がした。姿を見せた女性の手には一冊のアルバムがあった。
女性は向かい合わせに座り、テーブルの上でアルバムを開いた。アルバムには白黒の写真が何枚か貼られていて、中には暖簾を下げた食堂の前に並んで立つ人の写真もあった。「真ん中にいる人が義理のお母さんですか?」私が指差すと女性が頷いた。祖母の姿を探してみたものの、それらしき少女の姿は無かった。
「確か数ヶ月だけ、お嬢さんが働いていたらしいの。中華そばのレシピも、そのお嬢さんから習ったみたい」そう言ってからすぐ女性は頭を抱えて「お母さんからお嬢さんの名前を聞いておけば良かった。今すごく後悔してる」と言った。
少女が教えた中華そばが評判を呼び、お客が増えて店の経営が軌道に乗ったらしい。「その少女は…」と女性に聞くと「確か東京に行ったとか…」その少女が祖母ならば、その後東京で祖父と出会い、母が生まれたはずだ。
「麺結びってお母さんがよく言ってた。一杯の中華そばが沢山の人の縁を繋いだって」
そう女性が呟いた。戦争が終わり、それまでの社会規範やらが瓦解してしまった時代。混沌とした状況下、身近な食が人々の離れた心を結びつけていたのだろうか。
「また会おうね」そう言って握手をした時の祖母の顔が頭の中に浮かんだ。人と人とを結びつける意味で、中華そばは祖母にとって忘れてはならない料理だったのではないか。
帰り際、女性がお婆様の仏前に供えて上げてと菓子折りを持たせてくれた。私は自分用の菓子を幾つか買ってから店を後にした。
帰りの新幹線の車中でペットボトルのお茶をお供に豆菓子を口に運んだ。縁結びならぬ麺結び。夕暮れの車窓を眺めながら大阪への旅で祖母が新たに結びつけてくれた人たちを改めて思い返した。
◆サロン・ド・B・ネオ の作家たち◆
★★ぼりちゃん先生(仮名)の場合♪★★
≪第2弾!!秀逸っ!≫
サロン・ド・ビリケン・ネオ2018 初日 9/15
作・ぼりちゃん先生
朗読も・・ぼりちゃん先生
が、して下さいました。
《花田の但し書きですm(__)m
このぼりちゃん先生の名作を、ウィンドウズ7の
死にかけPCで、原始人はながワードで送られてきたものを
貼り付け作業中、手違いで文字の色や大きさが
変わってしまいました。
花田の興奮やらを醸すものとして
どうかお許し下さい!》
~迷いの先に見えたもの~
「ああいう草食動物らしい目がいいんだ」
額に汗を流しながらおっちゃんがつぶやく。
7月16日、さいたま市の浦和競馬場。時刻は午後2時半を過ぎ、暑さはピークに達しようとしていた。降り注ぐ陽光が肌を刺す。見上げた空は霞がかり水色になっている。
7レースが終わり、8レースに出走する競走馬がパドックで周回を始めた。徐々にパドックに観衆が集まってくる。おのおの真剣なまなざしで各馬の動きを注視している。
写真撮影をメーンに訪れていた私は、緊張感漂う馬達の横顔をカメラに収めていた。
熱気でメガネが曇り、すりガラスのようになる。レンズをふこうとファインダーから目を離そうとしたとき、ぼやけた視界に赤いメンコを付けた一頭の馬が映った。メンコは、顔や耳を覆う馬具であり、そう珍しくはない。
しかし、その馬はメンコの目穴からたてがみがはみ出て片目を隠している。走りにくそうだが、馬を引く厩務員は特に直そうとしない。ただ、その姿はどことなくブラックジャックに似ており、手塚漫画に出てきそうな風貌だ。私はこの馬が目の前を通るたび、カメラのシャッターを切った。撮影にも熱が入り、あおりの構図で撮ろうと私は腰を下ろした。
「お兄さんもあの馬いいと思う?」
傍らから、しわがれた声が聞こえ、私はハッとした。右隣を見ると、小さく折りたたんだスポーツ新聞と赤ペンを手にしたおっちゃんが座っている。
「ありゃあ走るよ」
そう言うおっちゃんは白シャツにベージュの長ズボン、そして首にタオルを巻き、いかにも常連さんといういでたちだ。
「でも、たてがみがじゃまで走りにくそうですよ」
「いや、よくあの馬の目を見てみな」
おっちゃんは額に流れる汗をタオルで拭いながら、私に馬の目をよく見るよう諭した。
赤メンコの馬の名は「バナナボーイ」。5歳牡馬、前走と前々走は川崎で出走し、ともに6着、オッズも出走馬9頭中6番人気である。穴馬とも言えるこの馬を推す、おっちゃんの真意はいかに。
「ああいう草食動物らしい目がいいんだ。うん。にごり目。にごり目だよ」
しかし私には、おっちゃんの言う「草食動物らしい目」、「にごり目」の意味はさっぱり分からない。ただ、赤メンコの馬の視線は、まっすぐ正面を見据えているように見えた。
それから私は、おっちゃんから騎手のこと、レース傾向など浦和競馬攻略法について指南を受けたのだった。「俺は競馬に人生を賭けている」真剣な面持ちでそう言い切るおっちゃん。
競馬は、馬も人間も皆、真剣勝負。競馬場にいると人々の様々な人生模様が垣間見える。私はその奥深さに強く惹かれていた。
私が競馬を始めたのは、昨年の夏。浜松町にある某ラジオ局主催のパーソナリティ講座を受講していた時だった。授業は週1回、実際に使用している放送ブースで行われる。根っからのラジオ好きである私にとっては非常に魅力的であった。
全20回のカリキュラムには、外部から講師を招いての特別授業が組まれており、講師の名は直前まで明かされないことになっていた。局側から発表があったのは、授業を翌週に控えた日のこと。
講師を務めるのは、有楽町の某ラジオ局で局アナとして勤めていた某女性フリーアナウンサー。当日の課題がフリートークであったため、私は会話のネタを探そうとまず、女性フリーアナの名をネットで検索した。すぐに所属事務所のプロフィール欄に行きつく。
まずは趣味から話を広げるのが良いだろう。そう思い、趣味の項目に視線を移した。
「趣味は競馬観戦」
「……」
競馬。何度かテレビ中継を見たことはあったものの、競馬場に足を運んだことは無く、無論馬券を買ったことも無かった。仮にネットで情報を収集したとしても付け焼刃に終わりそうであった。
実際に競馬場に行ってみるしかない。そう思い立ち、翌日私は大井競馬場へと足を運んだ。
なぜ大井競馬かというと、浜松町駅から発着するモノレールに途中、大井競馬場前駅があることを思い出したからだ。
初めて訪れる競馬場。レースはもちろんのこと、特に印象に残ったのは場内の雰囲気。施設はいたってきれいだが、レースが終わるごとにハズレ馬券や書き損じのマークシートが床を埋めていく。ごみ箱は各所に設置されているが、不思議と投げ捨てる人が多いのである。
また、スタンド席の争奪戦は熾烈で、座ろうとするとすでに誰かの競馬新聞が置いてあることもしばしば。競馬新聞ならまだいい方で、マークシートや紙コップ、はたまた焼き鳥の串まで場所取りの道具は枚挙にいとまがない。
ギャンブルの歴史は古代までさかのぼるというから、人間にとってはほぼ本能的なもの。それゆえ突飛な行動をさせるのかもしれない。
あわせて、迎え入れる競馬場関係者の方々の懐の深さに驚いた。私もビギナーでありながら売店のおばちゃんから気にかけてもらったり、警備員の方にやさしく道案内を受けたりもした。
肝心の特別授業は、競馬をテーマにオープニングトークこそ盛り上がったものの、自作川柳を一方的に紹介するコーナーは不評で「意味が分からない。学生のおふざけじゃないんだからまじめにやりなさい」と真顔で一喝される結果となってしまった。女子アナから叱責されるのは悪くない展開だったが、気まずさを感じ、しばらく有楽町のラジオが聴けなくなってしまったのは言うまでもない。
結局、ラジオパーソナリティー講座が私に残したのは、夢に見ていたラジオDJへの切符ではなく、競馬通いの習慣であった。
「いやぁ、ダメかもしんねぇ」
馬券の発売締め切り10分前、おっちゃんの急な弱気発言。
「どうしたんですか」
「あの馬、落ち着きが無くなってきたな」
そう言うおっちゃんも落ち着きがない。
ジョッキーが現れ、各馬にまたがる。赤メンコの馬も鞍上の指示のもと、コースに消えていった。
おっちゃんは馬がいなくなったパドックをじっと見つめている。
私はレースを見ようと腰を上げた。「レースは見ない」というおっちゃんと別れ、一人コースへと向かう。
ファンファーレが鳴った。馬券は買っていないが、本命は赤メンコの馬こと、3番バナナボーイだ。
「各馬ゲートに収まりました。準備完了。スタートしました。横一線に広がりました9頭、そろった飛び出しを見せました。まずは8番オヤジノハナミチ、11番ツーエムカイザー、3番バナナボーイの3頭が前に出ます。3番手の外に4番タツジンソクが並んで1コーナーのカーブ、その後ろに10番ワンダーヘーヒスト、離れて9番ナスノフラッシュ、外側6番のティーメロー、後ろに1番マイネマレフィカ、2番ハッピーリーベ、少し縦に長い展開となりました。先頭は8番オヤジノハナミチ、リード1馬身から1馬身半、11番ツーエムカイザー2番手、後ろに接近4番タツジンソク3番手、わずかに離れて3番バナナボーイ、2馬身差、10番ワンダーヘーヒスト、間があきました9番ナスノフラッシュ、6番ティーメロー、後方さらに離れて1番マイネマレフィカ、2番ハッピーリーベが並んでいます。先頭はこれから3コーナーのカーブ、逃げる8番オヤジノハナミチ、リード1馬身、2番手4番ツーエムカイザー、外から4番タツジンソク上がってくる。残り400を切りました。タツジンソクは2番手に上がって前を追っていく。後ろには3番バナナボーイ、10番ワンダーヘーヒスト、前の5頭が次第に固まってきました。離れて8番ナスノフラッシュ、6番ティーメロー、4コーナーのカーブから直線。前5頭が広がった。ねばる8番のオヤジノハナミチ、迫ってくる3番バナナボーイ、外からは10番ワンダーヘーヒスト、あいだ食い下がる11番ツーエムカイザー、一気に先頭バナナボーイに変わった。8番オヤジノハナミチ、10番ワンダーヘーヒスト2番手争い。バナナボーイ先頭でゴールイン。横に広がった争いから抜けました3番バナナボーイ、混戦を制しました」
勝った……。私はその場に立ちすくんだ。視点が定まらず、おろおろとコース内を見やる。赤メンコの馬が遠くから戻ってくるのが見えた。はみ出ていたはずのたてがみは、いつの間にかきちんとしまわれている。その姿にはすでに勝者としての誇らしさがあった。
しばらくしてパドックに戻ると、おっちゃんが一人、先ほどと同じ場所に座っている。
「勝ちましたね」
「うん……」
直前で馬券の購入を見送ったおっちゃん。さぞかし悔しいだろう。
「競馬ってのは何が起きるかわかんねぇな」
おっちゃんはそう言いつつ、ポケットから紙切れを出した。的中券。きっちりと3連単で取っている。
「俺はもう頭がおかしい。お兄さんは俺みたいになるなよ」
おっちゃんは伏し目がちに私を見た。その顔に笑みは無く、恐れさえ抱いているようだった。勝負師としても一か八かの戦い、最後は自分の勘を信じた。
「いや、もっと競馬について教えてください。近いうちにまた来ますから」
私の言葉を聞いて、おっちゃんの口角が上がる。
パドックでは、9レースに出走する競走馬が周回を始めている。次なる戦いに向け、おっちゃんは手元のスポーツ新聞に目を落とす。
暑さは幾分だが落ち着き、空は朱色に染まり始めている。
私はおっちゃんの後ろ姿にお辞儀をし、競馬場を後にした。
了
◆サロン・ド・B・ネオ の作家たち◆
★★ぼりちゃん先生(仮名)の場合♪★★
≪その1≫
『追想 西口最後の日』
作・ぼりちゃん先生
↓↓↓
行き交う人や車の喧騒、文字が氾濫する猥雑な街並、どこか混沌とした空気に満ちた新宿西口に私の職場がある。
新宿高速バスターミナル。
ビルの谷間に位置し、経年による煤汚れが目立つこのバスターミナルも今日をもってその長い歴史に幕を降ろす。
明日からは新宿南口の真新しいターミナルへと移転し、新天地での業務を始めるのだ。
今日は日曜日、昼を過ぎた頃から人通りは更に増え、駅へ地下街へ西口界隈へと三々五々、人々はそれぞれ目指す方向へと歩みを進めてゆく。
その風景を背に私はぼーっとパソコンの画面を見つめていた。
キーボードに置く指が一向に動かない。
ここでの様々な記憶が脳内を巡り、仕事が手につかなくなったのである。
私がここで働き始めて3年、短くも濃密な日々を送った。
2年前の大雪の際、運休続きで暇を持て余し、同僚とかまくらを作ったこと、ガールズバーとキャバクラの客引きの喧嘩で警察が出動し、バスが出発できず、大混乱を来したこと、売店のおじさんの発注ミスで出た大量のおにぎりを皆で勿体無いからと全て食べたことなど、思い返せば枚挙に暇がない。
「ぼりちゃん、どうした?」
そんな遠い記憶の旅に出ていた私を同期の白川が現実へと戻した。
ちなみに「ぼりちゃん」とは私のニックネームである。
「いや、特に何も。」
まるで寝起きのような気だるい声で私は答えた。
すると間髪入れず白川は
「もしかして寝てた…?仕事中でしょ。
それに今日は西口最終日、しっかりしてよ。」
と皮肉たっぷりの声音で私に言う。
同期の指摘に若干ムッとしつつも、私は彼に寝てはいないと釈明した。
白川は私の釈明を聞いているのかいないのか、早々に話題を切り替え、
「西口の番人が来てるよ。」
とカブトムシでも見つけた子供のような笑顔で私に話しかけた。
白川の言う「西口の番人」とは新宿西口界隈に出没する浮浪者のおじさんのことだ。
新宿駅あたりで浮浪者といえばそう珍しくは無いが、西口の番人は新宿西口のバスを知り尽くし、何度か私達の手助けをしてくれていた。当時バスターミナルではバスの到着時間を逐一係員が目視で確認していたが、どうしても人間の目ゆえ見逃すことがある。
そういう時、西口の番人に聞くと
「このバスは○時○分に到着したな。」
などとそっと教えてくれるのだ。
またある時はバス停に入ろうとしたタクシーを
「出てけこのヤロッ!」
と大声を出して追っ払ってくれたりもした。
今日は西口ターミナルの店じまい、白川とともに西口の番人に引越しの挨拶をしてから、駅前ロータリーを2人で見渡した。
褐色タイルが貼られた換気塔、壁のようにそびえるターミナルデパート 、高層ビル群を背に広がる新宿西口の象徴的光景だ。
「今日はガンジーがいないね。」
白川が独り言のように呟いた。
白川の言うガンジーも西口の番人と同じく浮浪者の一人なのだが… ガンジーは番人と異なり徹底的に何もしない。
一日中地下道の入口で胡座を組み、そして目を閉じている。
浅黒く焼けた肌と瞑想に耽る様子から、いつしか私達の間でインド独立の父、マハトマガンジーに因んでガンジーと呼ばれるようになった。
ただしそれはあくまで風貌だけで、インドのガンジーのように崇高な理念や精神までも西口のガンジーが持ち合わせているのかは全くもって不明である。
ズボンがずり落ち、涼しき都会のビル風に自らの逸物を晒し、誰が通報したのか警察官に連れていかれたこともあった。
暫くすると真新しいズボンを履かせられて戻ってくるのだが、またズボンがずり落ちて警察の世話になる。
その繰り返しだ。
時折、女性が現れて弁当を渡している。
支援者だろうか、ガンジーは謎多き男だ。
天高く林立する高層ビル群と地下歩道で寝泊まりする浮浪者のおじさん達… 田舎町で生まれ育った私にとってそれは東京の冷たさを体現するような現実感に乏しき世界であり、勤め始めた頃は「本当にここでやっていけるだろうか…」などと漠然とした不安感を抱いたものだ。
しかし時を経て様々な人々との交流を通して「確かにここで私は生き、そして働いている。」そんな意識がかすかに芽生え、次第に確固たるものになってきていた。
「ぼりちゃん、行くよ!」
「わかった。」
白川の声に私は踵を返し、歩き始める。
結局この日、ガンジーには会えなかった。
夕方、薄汚れた街路灯が滲むような明かりを灯し始めた頃、隣の家電量販店の警備員さんやら、売店のおじさんに挨拶を済ませ、引越しの挨拶回りは終わった。
周囲の派手なネオンサインに埋没しそうな薄暗いターミナルから10分毎に機械的にバスが出発していく。
私にとって何気無い日常の風景であるが、ガラス戸に貼られた移転告知の張り紙を眺め、改めて妙な喪失感を覚えた。
夜は更け、刻一刻と最終バスの時間が近づいてくる。
同僚や上司を含め皆、ホームに出てきて古参の社員を囲んでターミナルの思い出話に花を咲かせていた。
日曜日の深夜ということもあり、人通りは少なく、車のクラクションの音だけがビルに反響し、こだまする。
23時半の長野行のバスが出発し、ターミナルの最終便、名古屋行の夜行バスが入線してきた。
排気ガスが染み込んだホームから人々が次々とバスへ乗り込み、乗車待ちの列が徐々に短くなっていく。
並行して荷物の積み込みも行なわれ、程なくして発車時刻になった。私達は乗務員に挨拶をし、バスはけたたましいエンジン音を上げ、ターミナルを出て行く。
バスの赤いテールランプが幾度ともなくつき、程なくして視界から消えた。
「終わったね。」
誰かが呟く。
明日への期待感と不安感。
そんな入り混じる感情を抑えつつ、私は顔を上げ、狭い漆黒の空を見つめる。
「引越し作業手伝ってくれないかな? 書類整理とかまだまだ残ってるんだよ。」
上司の声に皆、散会し始め、私もターミナルの最後を見届けようと集まってきていた人々に挨拶をし、事務所に戻った。
午前0時近く、二度と開かないシャッターを降ろし、長い長い西口ターミナルの舞台は名実共に終幕した。
新宿南口のターミナルへ移転して1年が経ち、私は幾分業務にも慣れ、新たに生まれた問題への取り組みに忙殺される日々を送っている。
前述した西口の番人とガンジーの消息であるが、西口の番人は移転後、新ターミナルにも顔を見せていたが、南口の土地柄と真新しい乗り場は自らの性分に合わないのか、 暫くしてからその姿を消した。
ガンジーの方はというと… また警察の世話になっているのかもしれない。
END