◆このところ良い芝居に恵まれている。★劇団はえぎわ『ゴードンとドーソン』シアタートラム。★劇団フライングステージ『Friend,Friends友達、友達 & ドラマリーディング8』下北沢OFF OFF TEATER。

はえぎわに関しては、ブログの書き方間違えてしまい、コピー移動が出来なかったので、このページの奥の方に残しました。フライングステージは、若林さんが出演していたので行ったのだが、とても勉強になりました。性的マイノリティの人たちの悩みに初めて耳を傾けるきっかけになり、妙に感動してしまいました。ゲイやレズビアンの人々への理解とまではいかなくても、社会生活を送るに当たり、様々な壁がある事実、その改善に向け、様々な努力がなされていること。まったく知りませんでした。フレンズフレンズとっても面白く泣き笑いました。ありがとう。←芝居に出会えて。(後日付記)⇒そもそも僕は昔から思っていることがある。性的マイノリティって何?本来性の世界は、秘密だった気がするのです。性に絡む嗜好(←この言葉も実は良くないと思っている)は、実に個人的なものであったはずで、その昔私の世代は、性が秘密だったからこそ、オリジナルなオナニーを誰に教えられるわけでもなく覚え、不安に駆られたものだ。気持ちいいけどいいのかな?とか。今は性的なことが解放され過ぎて何かつまらない気がする。そしてもっともっと悩むべきだと思う。性こそ、最も未知の宇宙ではないのかな?本来変態さんの多い芸術の世界ではものすごく生き生きとしている性のマイノリティ的美意識というか創造性は、自分が他とは違うのではないか(←何に反応するかということにおいて)という悩みや、あえて他とは違いたいと願う、あるいは同じに属したいと願う、・・・人間のもともと抱えている『矛盾』の、最も端的に現れている部分が、性、である気がする。少なくともぼくは、自分でははっきりと宣言できるものではないのです。自分が性的にどこに属するかなんて、『わかりゃしない』としか云えない。ぼくはむしろ

自分はゲイだとか宣言できるひとのほうがなんだかすごい気がする、また、一方でほんとにそれだけ?ほんとにそれでいいの?他のあなたはあなたのなかに居ないのですか?と思うことがある。性に関することは、人生の永遠の課題なんじゃないのかなあ?と、思うことがある。ま、そんなの生活に余裕のある遊民的階級のひとたちにとっての課題かもなあとも思うが。ただ、決して裕福ではない私が、なんで自己表現を地味ながら還暦近くなってはじめたか?を鑑みれば、必ずしも遊民でなくても性の追及は出来るだろうし、やっている人達はいるのだろうな!と、思えて来ました。もすこし変なこと書きます。歳を取ってしまった私の数少ない友人たちが、無反応になってきていること(僕をうざいと思っているというより、あらゆることにエネルギーが向かなくなってきているのではないかな?馬鹿げたこんな仕事、イベントをやろうと思うおめでたさは、普通のちゃんとした生活を送っている人々には無くなってきているのかな?と思うことがあります)は、

嗚呼実は自分はそんな歳なのだと慄きすら覚える瞬間があるのです。どうでもいいけど。あ!みなさんビリケン夜話、サロンドビリケンいらしてくださいねええええ!ほなっ、はな 拝。